以前、こちらの記事を読んだ。
上のリンクに跳ぶと分かるが、副題にはこう書かれている
『それでもタモリさんと考えた、唯一の解決法』
これが本当に唯一の解決法なのかは分からないが、それでもなるほどと納得するべきところがある。
ちなみに筆者は皆大嫌いキングコングの西野氏である。僕?もちろん嫌いです。
イジメとは?
タモリさんが定義するイジメの本質とは『娯楽』。お金もかからず、手軽に楽しめる娯楽なのだと語っている。
そしてその場合の解決法には、『それ以上の娯楽を用意する』、というものであった。例えとしてあった『プレステ3を止めさせるには、プレステ4を買い与えればいい』というのは、まるで外国のジョークのようで面白かった。
確かに、イジメが娯楽とするなら、それである程度の解決はできるとは思う。娯楽で行動に残忍な行動に制限を掛けるというのは、まるで千夜一夜物語だ。
しかし、それでも必ずなくなるという訳ではないと思う。
タモリさんはイジメとは娯楽であると定義し、同時にその特徴として、『お金が掛からず手軽である』と述べている。
これがネックだ。
他のことに熱中している間、確かにイジメなどは起こらないだろう。そのような余力はすべてそのハマっていることにつぎ込まれるであろうから。
だが、いつまでもその熱を維持できる人間というのは少ない。筆者の西野氏がお笑い以外に力を入れているようにどうしても別の事に意識が向いてしまう。
そしていったん冷静になるともう駄目である。
何故なら、『娯楽というのは相反しない限り、共存が成り立つ』からである。
常にお金が掛かるような消費型の娯楽、例えばプラモデルやグルメなどの場合、他にお金が掛かるような娯楽はそうそうやらない。少なくとも同額の負担が掛かるような娯楽は選択肢に入らないはずだ。『お金を使う事そのもの』が娯楽でもない限りは。
逆にお金が掛からない娯楽を持っている人は、別にお金を使う娯楽を持っている可能性がある。優先順位的には低いかもしれないが、それでも別の娯楽が共存しているといってもいいだろう。
同様に時間がかかる娯楽を持っている人は、他の時間がかかる娯楽を持たず、手軽にできる娯楽を持っている可能性がある。
実際、インターネットやテレビなどは殆ど定額が決まっている娯楽ではあるが、一日中それだけをやっているという人物も稀なはずだ。
基本的に娯楽に費やされるものはお金と時間だ。
大人になれば資金的な余裕があり、視野が広がり別の娯楽を見出す機会も増えるだろう。ブラックな会社に勤めていなければ、時間を確保することもさほど難しくないはずだ。
だが少年時代には選択肢そのものが少なく、また資金的な制限は成人より強いものである。娯楽の数が根本的に少ないといえる。
その中で手軽かつ無料で楽しめるという、『他の一切の娯楽と相反しない』娯楽というものがあれば、手を出す人間は居る。絶対に。
千夜一夜物語が成り立ったのは、殺してしまえばその面白い話が聞けなくなると思ったからだ。最後、回心せず語り手を殺してしまう可能性だって、あったはずだ。
そもそも、イジメの本質とは娯楽なのだろうか?
娯楽の面があることは否定しない。やっている本人たちに聞けば楽しいという答えが返ってくることは意外ではない。
子供たちなら恐らくそう答える可能性が高い。
では大人たちは?
大人の世界でもイジメはあると聞く。テレビやネットに流れてる情報が誇張や捏造されていない限り、それは真実であると思う。
何故彼らはイジメを起こすのだろうか?
ただ楽しいだけとは思えない。
良く聞く一つの話としては、『人間が社会的生物』だから。
社会的生物と言えば聞こえはいいかもしれないが、要はピラミッド型の構造をしている生活様式だということだ。トップが居て、そこからの命令を受け取るシステムだ。
生活基盤によってその人個人におけるトップが誰なのかは分からないが、問題なのは『人に上下がある』ということだ。
犬でも上下関係がある。いわんや人間にも、だ。
上の立場の人間が居れば下の立場の人間が居る。そして上の立場に行きたいという人は居るだろうが、下の立場に行きたいという人など、そうはいまい。
犬は甘噛みによって上下関係を築くという。人間も相手が上役なれば、自然と立ち位置が分かる。
しかし同僚など、立ち位置が不明瞭な場合はどうするのか?
分からない。だったら下の人間を作ってしまえばいい。
イジメの場では、文句なしにイジめてる側が上で、イジめられてる側が下である。
社会性の動物というのを理由にイジメの原因を述べている人の意見は概ねこういうものである。
これに関しては悲しいことに、人間は結局『動物』の域を抜け出せないということを示しているのだと思う。
『動物』であり、それが『本能』としてあるのなら、それを解決する方法を僕は提示することが出来ない。
寝るな遊ぶな飯を食うな。これを人に強制できないように。
戦争とは?
またタモリさんは戦争を『好きという感情があるから起こる』と解釈している。他人が持っているものが『好き』だから奪いたくなるし、『好き』なものを奪われたからこそ怒りが生まれる、と。
これは妬みや復讐心が生まれる基本的な感情として、『好き』があるということだと思う。『好き』という感情に従った結果発動したのが、戦争という手段だということだろう。
好きという執着心さえなければ、奪われても何も感じず、また怒りの感情も芽生えない。タモリさん自身も語っているように、植物の域の精神を持つことが平和につながるのだと。
極論だとは思うが正論でもあると思う。
何に対しても思うことのない、真に無感動な人間で居られたなら、近所で凶悪犯罪が発生しても争いが生まれるとは思えない。
果たして人間なのかどうかという疑問が生まれざるをえないが。
人間が人間である以上、戦争をなくすことはできない。
その事実、そこから考えることが大事なのではないか、というのがタモリさんの意見だった。
それを聞いた西野氏が出した戦争を止める方法とは、『戦争が起こる前の状態を常に維持し続ける』というもの。
引き金を引くまでの笑顔の時間、これを常にキープし続けることによって、戦争を起こさせないというものであった。それだけ人を感動するためのエンタメ作ればいいという意見だ。
西野氏ということで余り共感したくないがこの考えには一定の理解が得られると思う。
というのも、戦争というのは基本的には『外交手段』であるからだ。
資源であれ何であれ、何かを得るために起こすものが戦争である。
こちらの消耗より相手から奪い取れるものが大きい、つまり『利益』があるからこそ戦争が行えるのだ。
敵対する相手が大きくなればなるほど、こちらの消耗が増え、結果旨みが減る。
戦争とはあくまで手段なのだ。
西野氏が言う、エンタメによって人々が感動し満足している間に戦争が起こると、内側からも批判が募るので、お偉い方々も易々と戦端を開くことは出来ない。
これにて一件落着である!
とはならない。
こういってはなんだが、エンタメではどれだけ頑張ろうとお腹が膨れない。
エンタメは精神的満足を与えるものであり、物的満足を与えるものではない。
物的に豊かである、いわゆる先進国の人間ならそれが通用するかもしれない。
しかし物的に貧しい国では、永続的に満足できる極上のエンタメより、その日のご飯が最優先される。
豊かな国から食料を回せばいい、というかもしれないが、そうなると必ず不満が出る。
不満が出てしまえば、西野氏の理想から外れることとなるだろう。
戦争を止めるには、戦争をする以上の『利益』か、または戦争をさせないだけの『不利益』のどちらかを用意することが大事なのではないだろうか。
まとめ
批判的な語り口となったが、今回の記事のおかげで自分もイジメや戦争ということについて考えさせられることとなった。
極論とは思うが、それはむしろここまでが限界という線引きでもある。
タモリさんの意見に共感するのか反発するのかは人それぞれだが、それでこのことについての考えさせられることが出来るのならいいと思う。
正直眠すぎて文章が支離滅裂になってきたと思うのでここまでとする。
推敲や修正は、気が向いたらやる。
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